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2008.08.31 8月31日

 小さい頃
 7月20日 終業式の日
 1学期の荷物を抱えながらの
 帰り道ほど
 うれしい時はなかった
  
 いろんな楽しい事を考えていると 
 夏休みがいつか終わるなんて
 信じられなくなる

 8月31日なんて
 永遠に来ないような気がしてくる

 でも
 どの夏休みもすべて
 必ず8月31日 (終わり) はやってきた

  ・・・・・・

 8月31日の夜
 フトンの中で
 夏休みのいろんな
 楽しかったことを
 思い返していた

 あんなに楽しかった毎日が
 終わってしまうのが
 なんだか不思議だった

 始まりがあれば必ず終りがある
 そんなあたり前のことを 考えていると
 すごく怖い事
 考えちゃうの


  『私が死ぬ時も
   いつか必ずやってくる』



 (植芝理一 「ディスコミュニケーション」 第71話 『8月31日』)


夏も終わりの季節ですね。

ここ数日、毎日のように夕方から雷雨になって、そのまま雷鳴を聞きながら就寝という、いままで体験したことがない天気がここ数日続いています。とはいっても季節は確実に夏の終わりに近づいていて。
夕方にはどこからかひぐらしの「カナカナカナ…」という鳴き声が聞こえてきて、なぜか物悲しい気持ちになります。

物悲しいといえば、『8月31日』という日付自体、物悲しいものであり、いろいろ思いの詰まっている日と言えるでしょう。

思い出してみれば、自分も小学生のときには8月31日の夜に泣きながら宿題の工作を作っていたり、絵を描いていたりしたものです (不思議と算数や漢字のドリルは最後まで残っていた記憶がないのですが…)。

高校生ぐらいになるとさすがに8月31日に切羽つまって宿題をやるような状態にはなっていませんでしたが、精神的に落ち着きがなくなって眠れない夜を過ごした揚句に31日の早朝に徹夜明けの状態で自転車にまたがり海まで走っていったこともありました (ちなみに海までは自宅から40kmぐらいありました・・・)。


このセリフは主人公の一人、戸川さんが子供の時から毎年8月31日の夜にフトンの中で考えていたこと、という内容で登場します。まさに1年の中で今日だけしか紹介できないセリフです。

あんなに楽しかった夏休みが終わってしまう、明日から学校が始まってしまう、永遠とも思えた40日はあっという間に過ぎ去って、終わりは確実にやってくる。

植芝理一の「ディスコミュニケーション」では、夏の始まりのわくわく感を表現した『夏が来る』という話もありましたが、この『8月31日』のように終わる物悲しさを表現しているお話もあります。このお話の秀逸なところは、単純に夏が終わる物悲しさだけを訴えるのではなく、自分の終わりについて考えさせるところにあります。

今の楽しい人生も、いつか終わりがやってくる。自分ではどうする事も出来ない、抗えない終わりは必ず自分のところに、確実にやってきます。そんなことを考えたとき、人は無性に儚い気持ちになります。

でも、このお話には続きがあります。

(9月1日の空を見上げて)

 見上げれば
 9月1日の空でした
 
 『きれい…』

 そうだ
 終わりは
 新しい始まりなんだ



楽しかった過去に囚われて
40日間の思い出だけを糧に生きていくよりも
過去を過去の思い出として割り切って
新しい始まりの中で生きていく、そんな決意をしたとき
戸川さんが感じていた、無性に儚い気持ちは
どこかにいってしまったのでしょう。

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「そして世界が残酷なのは  当たり前のことです。

 生の始まりは化学反応にすぎず
 魂は存在せず精神は神経細胞の火花にすぎず
 人間存在はただの記憶情報の影にすぎず
 神のいない無慈悲な世界で
 たった一人で生きねばならぬとしても
 ・・・なお・・・なお

 我は意思の名の元に命じる
 『生きよ』と」

 (木城ゆきと 「銃夢 Last Order」 第7話 ディスティ・ノヴァ教授のセリフより)

私にとって銃夢は思い出深いマンガです。
最初に単行本を買った場所が卒業旅行にいった小笠原の父島でした。
小笠原はTVの地上波放送がないので、民宿にもテレビはありませんでした。
夕ご飯を食べたあと、する事もなく南国の生暖かい、湿り気のある夜風の中で、脳だけが生身で全身サイボーグのガリィという主人公の物語を何回も読み返したものです。

あれからもう15年以上経って、僕も学生から社会人、そして数回の転職と変化してきましたが、いつも銃夢はその節目節目に不思議にも僕の人生の中に現れて、啓示を与えてくれる神託のような役割を果たしてくれました。

スタイルそのままマッドサイエンティストの「ディスティ・ノヴァ教授」は、人知を超える恐怖と狂気から生還した男として登場します。主人公のガリィは脳は生身で体は機械、ノヴァ教授は脳はコンピューターチップで体は生身。組み合わせの違いといってしまえばそれまでですが、脳がチップであることは生きるという意味をより考えさせてくれたのでしょう。

脳の活動は突き詰めていけば化学反応であり、有限の細胞の連結による0か1の電位差でしかないわけで、理論上は脳でなくてもその動きをすべてコピーすればチップ上に再現できるといわれています。そんなことになったとしても、私たちはやはり生きようと思うのでしょうか。
2007.06.14 夏が来る
「人生のなかで
どんなにつらい事や
悲しい事があっても

死んだ人間から
見れば
生きてるって事は
とてつもなく
うらやましい事
なんだろうなあ」


(植芝理一 「ディスコミュニケーション」 第68話 『夏が来る』)


梅雨ですね。
それもしとしとと梅雨らしい梅雨です。

梅雨になると夏が近い。

梅雨と夏の境目は、いまでこそうやむやな感じですが、昔はもっとはっきりしてました。

梅雨の終わり頃。
今までしとしとと雨を降らしていた空が突然ざわっと暗くなり、雷雲が広がり、突如としてざあざあと大粒の雨を降らせます。遠くでは雷鳴がとどろいているようです。肌寒く感じるほど気温がグッと下がり、ガラス窓やコンクリの壁には露がついてしまいました。

しばらく続いたかと思うと雨音が徐々に弱まり、空が明るくなってきました。湿り気のあった空気が、射してきた夏の日差しで暖められ、熱気を持って部屋の畳の上を通り過ぎていきます。外を見れば、いつの間にか咲いていたヒマワリの花に雨のしずくがついています。遠くからはアブラゼミの鳴き声が聞こえてくるようです。

そんな夏になる一日前の、最後の梅雨の日の出来事を描いたのがこの『夏が来る』というお話です。

この町で夏の季節に死んだ子供たちの霊は、毎年夏がやってくる前日に「夏のときめき」を経験して、毎年一人ずつ仲間を天国へ帰していきます。夏のときめきは「ひまわり」だったり「浮き輪」だったり「夏休みの映画の券」だったりしますが、この話の中では主人公 松笛と戸川の「キス」がもっとも「夏のときめき」を感じさせるものとして描かれています。

夏のわくわく感というのはいくつになってもいいものです。
でも、夏の日差しや夏のにおいや、夏のわくわく感は生きていなければ感じられないでしょう。

悲しいと思うことや、つらいと思うことも、生きているからこそ感じられるものです。

毎年、この時期になると思い出すマンガの一コマです。

遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ

(梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑)

初めて見たのは植草理一の『ディスコミュニケーション』の病的なまでの書き込みの一部。
ずいぶんたってから後白河法皇の『梁塵秘抄』という書物の一部だということを知る。

『ディスコミュニケーション』では、子供のころスーパーの片隅などにあった10円いれてウインウインって動くのりもの(正式名称がわかりません)で、佐藤製薬のサトちゃん型のもののイラストとともにこの「遊びをせんとや生れけむ」がカルタのように描かれていた。

(正確には、『ディスコミュニケーション』では 「遊びをせんとて生まれけむ」となってます。)
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